ideagram

(心に浮かんだ)「考え」を書いたもの。

祈りのあいだで~ラオスで「豊かさ」について考えたこと

(引っ越し元ブログからの転載です)

 

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-8月27日。ルアンパバーンにて。

世界遺産ルアンパバーンの托鉢」は殊に有名らしい。

総勢約1000名もの坊さんが毎朝、町中の通りを歩き、

敬虔な仏教徒であるラオスの人々は托鉢のために通りに並ぶのだ。

もちろんそれを見るためにルアンパバーンの町を訪れる観光客も多い。

その観光客のために、通りに椅子を並べて「托鉢体験」を提供したり

喜捨用のカオニャオ(もち米)とお菓子をセット売りしたりしている人々もいる。

観光地の人々は、やはりなかなかの商売上手だ。

ルアンパバーンの托鉢は、確かに壮観ではある。

 

 



だが、何かが違う。

托鉢をしているのは、観光客なのである。

住民は観光客目当てでモノを売ったりしていて托鉢に参加していない。

チャンパーサックの村で村人たちが、

自分たちの祈りのために毎朝托鉢をしているのを見てきた僕は、

ルアンパバーンのいわば「商業的托鉢」に対してはどうも違和感を禁じ得なかった。

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いずれにせよ、どうも僕にとっては表通りでの「有名な托鉢」が居心地のよいものではなかった。

写真もあまり撮らずに僕は路地を抜けて、一本だけ裏通りに入ってみた。

そこには表通りの雑踏と混乱とは対照的な、静かな托鉢の光景があった。

観光客もまばらにはいるものの、通りに並んでいるのはラオスの人々であり、

住民自身による「祈り」が存在していた。

ちょうど托鉢の列が通りかかってくるところだったので、

僕は道脇にたたずんで様子を見ていた。



―お寺ごとに列を作ったお坊さんが銀器のふたをあけて歩いてくる。

喜捨をする人々は、自分のもち米をひと掴み手に取って、

祈りを捧げながら、お坊さんの提げている銀器の中に入れる。

少年のお坊さんには、お米の他に小さなお菓子を入れてあげる。

すると、“同僚?”の子どもとうれしそうに笑う。

これがいつもの托鉢の姿なのかもしれない。



しばらくその場に留まって、托鉢の様子を見ていたら、あることに気付いた。

普通の人々たちが並ぶなかで一番終わりの端に

身なりからして貧しい感じのする子どもたちが、

カゴやバケツを前に托鉢の列に並んでいたのである。

どれだけ自分たちが貧しくとも、「祈り」と「喜捨」は忘れない信仰心が

ラオスの人々にはあるのか、と思い、感心してその様子を見ていた。




しかし、この子どもたちはどうもそうではないらしかった。

お坊さんの列が前を通りかかり、他の人々が喜捨をするなかで

この子どもたちは胸の前で合掌を作ってお坊さんの列を見つめていたのである。

目の前を銀器を持ったお坊さんが通っても、喜捨をすることはない。

お願いをするような顔で胸の前に合掌をしたまま

托鉢の列が前をすぎていくのを見ていた。

彼女たちは「喜捨をする」ために通りに並んでいるのではなかったのだ。




しばらく見ていると、お坊さんが自分の銀器に手を伸ばした。

手にはひとつまみのもち米が入っていて、それを少女の前のカゴに入れた。

いつも見る「托鉢」、お坊さんに喜捨する姿とはまったく違う光景だ。

この列に並んで合掌をしている子どもたちは

お坊さんに「喜捨される」ためにこの「托鉢」に参加している。

今まで「托鉢」は人々から僧侶への一方向的なものだと思っていたが、

どうやらそうではないらしい。

 

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僕の浅い考えでは、

生活や食べるものに余裕のある人々が「功徳」というアチーブメントと引き換えに

お坊さんに自分の「豊かさ」を分けるのが「喜捨」であり、

それを行う儀式が「托鉢」ではあった。

 しかし、どうやら托鉢にはそのような一方向的なDonationの構造があるだけではないようだ。

お坊さんはただ貰うだけの存在なのではなくて、

必要に応じて、「喜捨」でもらった富を、

自分よりも貧しい人々に分け与えることで、人々を「救済」もするのだ。

貧しい者は托鉢に参加すれば、食べ物を分けてもらうことができるし、

豊かな者は結果的に自分の食べ物を貧しい者に分けることとなり、

食べ物と引き換えに「功徳」という宗教的功績を得ることができるのである。

「お坊さん」は、人々の間で「豊かさ・貧しさ」の再分配を行う媒体人なのだ。

 

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 老人と少女



みなさんは、この写真をどう読むだろうか?

椅子に腰かけた老人が手にしているのはひとつまみほどの「もち米」である。

そう。この写真は、おじいさんが子どもにご飯を分け与えている様子を映している。

しかし、この老人に映るのは、貧者への慈悲でも、子どもへの優しさでもない。

この老人は、最後にカオニャオのかごにへばりついた米を、指先でつまみとり、

横にいる子どもに投げ与えていたのである。

まるで、公園のハトにエサを与えるかのように。



このおじいさんの身なりはしっかりとしていて、きっと生活は裕福なのであろう。

しかし、僕はこの老人の手つきからは、

貧者を馬鹿にした、軽蔑の気持ちを感じ取った。



相手が子どもだったから僕は尚更に嫌悪感を抱いたのかもしれないが、

あの平和でのんびりとしたラオスの地で(しかも神聖な托鉢の儀式で)

「豊かな」人間が抱く、「貧しさ」への差別の気持ちを垣間見てしまった気がした。

観光地化・経済発展と、人々の生活レベルが向上することに相関はある。

発展と「豊かさ」は比例して進んでいく。

しかし、その成長・発展グラフからこぼれおちてしまう人間がいることは確かだ。

すべての人間の生活が平等に豊かになっていけとは言わない。

しかし、その経済的な「豊かさ」への成長のグラフに比して、

y=-αxのようなグラフの軌跡を残し、徐々に消滅していってしまう精神的な「豊かさ」もあるのかもしれない